無雙眞古流(無双真古流)は「むそうしんこりゅう」と読み、日本に伝わる華道のひとつで、江戸時代に始まり銀閣寺にて今も受け継がれています。

いけばなの歴史

いけばなの歴史を紐解くと、室町時代に形が整ってきたと考えられています。歴代の将軍の芸術振興によって、文化活動が盛んになりました。その中で器に花木を立てて生ける「立花」(りっか)という様式が生まれ発展していきました。

これとは別に、花材を「投げ入れる」様にして器に傾けて挿す様式も行われるようになりました。これが「投げ入れ花」と呼ばれるもので、複雑な立花(後に立華と呼ばれる)よりも庶民にとって親しみやすく、江戸時代に入ると盛んに行われていたようです。

”いけばなの変遷”. 日本古流いけばな. http://www.nihonkoryu.org/jp/about/nihonkoryu/ikebana-hennsenn.html,(参照2023.7.30)

無雙眞古流(無双真古流)

小倉小笠原藩時代(1764年)、現福岡県みやこ町勝山にいた木村徳右衛門が、投げ入れ花を基本とした東山流を創設した千葉一流より名跡を受け継ぎ、無双真古流を継承しました。

無双真古流について調べてみると、私たちの地元みやこ町勝山に、無双真古流の宗家である木村家のお墓や茶器など、当時の物があるということがわかりました。2012年に豊前国小笠原協会のメンバーとボランティアの方数名で、木村家のお墓を清掃させていただきました。写真は清掃時のものです。

受け継いだ「投げ入れ花」という様式は、千利休の教え「花は野にあるように」生ける考え方です。ここがいけばな(華道)との違いになり、「茶花」と呼ばれ区別されています。

茶花の歴史についてまとめた資料を紹介します。

茶花の歴史

生け花が「神理教」に繋がる            

光畑浩治

 人の繋がり、地の繋がりは文化を身近なものにするようだ。豊前国を発祥とする華道の「無雙眞古流」は、江戸時代から京都の銀閣寺(慈照寺)に伝わって来た。


 慈照寺の花方から「花は、室町八代将軍・足利義政(1436~90)を流祖とし、福岡県みやこ町勝山の木村家が、代々花道の理と術を正確に伝える宗家だった」といい「ぜひ、木村家の墓参」をとの話。そこで一般社団法人豊前国小笠原協会(川上義光代表)は、これまで知られることのなかった「埋もれ隠れた貴重な遺産」の顕彰をみやこ町に働きかけた。


 平成24年(2012)春。宝暦14年(1764)に足利18代千葉官蔵から木村徳右衛門が名跡を受け、11代まで続いた木村家「花樂堂」の歴代墓に銀閣寺関係者の参拝が実現した。後、花方は「花は流派であって流派でない、家元制度がなじまない」などの伝承経過やシンプルな様式の花の実演を披露した。花関係者は、この花は北九州の「神理教」に関りがあるのでは、との声が、時折、話題に上った。令和5年(2023)春、墓参から10年を経て、協会関係者は「神理教」を訪ねて驚いた。徳力神宮・神理教(巫部祐彦管長/北九州市小倉南区徳力)の神歴は、日本古代から存在する教えを大切にする古代神道の中でも純神道といわれる。その歴史に足利尊氏(1305~58)が登場。尊氏は南北朝時代、京都で敗戦、九州に敗走。田川郡福智町の禅寺・興国寺境内の巨木下の隠れ穴に潜んでいた。武運吉凶を占う蕾つく桜の木を地に挿し「今宵一夜に咲かば咲け咲かずば咲くな墨染の桜かな」と詠んだ。翌朝、花が見事に咲いた。勝利を信じ、東上し勝利。室町幕府樹立と伝わる。


 興国寺の隠れ穴時代、古神道・神理教と地の利もあり、深い交流があったのではと推察できる。神理教の古書にも「尊氏に献花」、「東上へ同行」などの記録も残る。すると室町幕府初期から神理教の姿もあるようで、日本文化の花や茶、連歌などが「室町」からという礎を築いたのは「神理教」も関わっているのでは、の思いを持っても不思議ではないだろう。


 それは小倉藩の小笠原家菩提寺の広寿山福聚寺境内墓地をはじめ、「躰と添」の少ない草木を使い、天人地三才の思想を基につり合いをとる無雙眞古流の碑が小倉城周辺に散在するのも「尊氏献上花」が「無雙眞古流」の源流だったかもしれない、など「神理教」をめぐることで国のカタチを含め、意外な「真」が顕れてくるかもしれない。花を歩く。

 

茶花エッセイ

茶花をテーマにした当協会理事 光畑浩治によるエッセイを掲載します。

茶花を献じる儀式(神理12月号)
※上記エッセイ中の「茶花士」(ちゃばなし)と「茶花士講座」について、詳しくは「茶花士」のページをご覧ください。

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