新時代に向かう「徳力神宮」

令和5年(2023)夏、福岡県北九州市小倉南区徳力の新緑深き郷で育まれて来た大社の古神道・神理教が、さらに人々に親しまれる社として「徳力神宮」と名付け、新しい時代を歩み始めた。日本神話に登場する神である饒速日命(にぎはやひのみこと)を初代としていただく社は、悠久の時を越え、未来永劫の時代へと向かう。社境内にある由来を記す。

徳力神宮の由来

この徳力の神社がある「徳力」の地名は、1600年以上も前からの歴史を有しています。西暦391年、仲哀天皇の后の神功皇后が、朝鮮半島へ出兵する際に、ここから西へ7kmほど先の皿倉山の山頂から北の朝鮮半島を眺め、戦略を練りました。

その戦勝祈願の祭場として選ばれたのが「徳力」でした。木造軍船の木が豊富に採れ、近くの紫川は木を運ぶ良好な川であったからです。このため、ここは「採利木(とりき)」という地名になり、やがて縁起の良い現在の「徳力」の名に変わりました。

神功皇后が、戦勝祈願をした場所は、ここの本殿から南に500mほど離れた大嘗山で、現在、緑樹が生い茂る大鍋山です。随行した物部氏一族で、後の巫部家の九代瞻咋宿袮命(いくいすくねのみこと)」は、祈願の補佐をし、水の湧き出すこの地に特別な力があることを知り、これを伝えてきました。西暦430年頃、巫部家12代伊美岐連命(いみきむらじのみこと)が、17代履中天皇の疫病根治の命を受け、諸国を巡り、巫部家に伝わる日本古来の医学と祈りによって病を鎮めることができたとのことです。それ以来、この徳力の地に居を定め、代を重ねて祭事を受け継ぎ、子孫へと伝えてきました。

この境内で汲み上げる水は、無菌でミネラルが豊富な硬水として、1600年もの歴史のあるこの場所に絶えることなく流れています。春と秋の彼岸には、神功皇后が登った皿倉山に沈む夕日が、100mの参道に”日願の道”を映し出します。このような永い歴史に鑑み、この「徳力の神社」を「徳力神宮」と命名することになりました。

令和5年9月 第81代 管長 巫部祐彦

日本古来の神は、外来宗教の影響を受けることなく存在していた。古神道の出雲大社教(島根県出雲市)や神理教、古神道仙法教(大阪府堺市)など、新しい社の摸索が始まった。

光畑浩治

2023年(R5)12月23日